【名医からのメッセージ~トップランナーが語る半生】001 中山 若樹(脳神経外科)第1回

【名医からのメッセージ~トップランナーが語る半生】001 中山 若樹(脳神経外科)第1回

各領域のプロフェッショナルである「名医」へ、その生い立ち、医師になったきっかけ、実績、そして未来へのメッセージをインタビュー。 
 
一般生活者へ最新医療を啓蒙、医師へのメンタルブロック解消により病院や医師選びの選択肢の拡大を実現し、個々にとっての最適な医療の受診につなげることを目的にしています。
1人目は脳動脈瘤や脳動静脈奇形などの脳血管障害におけるプロフェッショナル 中山若樹先生(柏葉脳神経外科病院 常務理事・副院長/高度脳血管病センター長)です。
8回にわたるシリーズの1回目は「生い立ち、そして医師を目指したきっかけ(前編)」になります。

第1回:バレーボールに熱中、医師への憧れも抱く
よく遊び怪我が多かった子どものころ、医師の存在を知る
—お生まれはどちらですか。
茨城県の日立市で。海岸地域は日立製作所が最初にできた場所で空襲に狙われたほどかつては発展した地域だったんですが、すぐ奥に入ると山なんですね。僕の生まれたのは諏訪町って言って、梅林があるとこなんですけど、その山間のところで育ちました。
だから、もう子ども時代は 本当に野原と川で遊んでたっていう状態です。両親は別に医者とかじゃなくて、会社員ですね。親父は発電所の設計者でした。数学や物理が大好きで今もモノ作りしたり色んなものを書き上げたりしてます。母親は専業主婦でした。全身全霊で僕を育ててくれたと思います。
子供のころによく遊んだ諏訪梅林とそこを流れる鮎川
—医師を目指したきっかけは。
医師を目指したきっかけは、自分でも正確に思い出せないんですけれど、 そうやって山や川で吹っ飛んで遊んでたんで、怪我が多かったんですね。それで、小学校の時、足に手術をしなきゃいけない怪我をして、今思えば局所麻酔だったんだと思うんですよね。
当然小学生だから怖いし、痛いかもしれない。なんか恐怖じゃないですか。
手術室ではもちろん看護師さんが優しかったのと、あと、ずっと僕の頭のとこで語りかけてくれてた男の人がいたんです。それで、その人にすごく助けられた記憶があって、 今思えば麻酔科の先生だったと思うんですよね。
小学生ですから、どんな仕事が世の中にあるかなんてほとんど知らなかったわけですけど、どうやらお医者さんってなんか偉いんだなっていうのもだんだん分かってきて、 だからそれがきっかけなのかもしれないです。
だから、小学校の卒業文集に、将来なりたいものにドクターって書いてある。それ以外に何を思ったかはもう思い出せないんですけど、あえてきっかけって書くとしたら、そこなのかなと。
それから、ドクターになりたいっていう思いが変わったことはないですね。ずっと他を考えたことはなかったはずです。じゃあ、一生懸命勉強してたかっていうと、お世辞にもそんなこと言えなくて(笑)、本当に子供らしく野山で遊んでたと思います。
小学3年生。やっと買ってもらった自転車で自慢げに。
バレーボールに熱中、医師への憧れも抱く
—中学、高校はどんな時代でしたか。
中学は受験して水戸市にある国立中学に通いました。電車とバスを乗り継いで片道1時間半ほどかかる距離だったんです。でもその通学も楽しい時間でしたね。学校では「常磐線組」って呼ばれてたんですけど、同じ常磐線にのって遠距離通学する友達が数人いて、いっつも一緒に悪ふざけばっかりしてたかもしれません。学校でもよく叱られてました。でも授業はちゃんと聞いてましたよ(笑)。
僕は国語がいちばん苦手だったんですけど、中学3年の担任の先生が国語の先生でした。厳しい先生でしたけど、でも尊敬してましたし、かなり強い影響を受けたと思います。高校受験は水戸の高校を志望してたんですけど、実家が日立で学区外だったこともあってかなり狭き門だったんですよね。めげそうになっていた年末に、その担任の先生から大きい絵巻物のような手紙が送られてきたんです。水彩の風景画が添えられていて、タイトルが「激れ(はしれ)」。“今しかない、後悔しないように、川の水がとめどなく流れるように、全力で突っ走れ”と、応援歌のような手紙でしたね。それで奮い立って、その絵手紙を机の前に貼って文字通り激りました。晴れて第一志望の高校に合格できたのも、この先生のおかげだったと思います。
—なるほど、高校ではどんなことに熱中してましたか。
そうですね、小学生からずっとピアノを習ってました。ピアノは結構高校生まで弾いてました。全然アマチュアですけどね。
なによりも、部活のバレーボールにとにかく打ち込んでました。朝練もして、放課後もずっと練習してっていう感じでひたすら熱中してましたね。体育館にばかりいたような気がします。だから 高校はそれなりにいい成績で入学してたはずなんですけど、3年の夏に部活引退したとき、気がついたら成績が400人中350番ぐらいまでになってました。すべてバレーボールのせいです(笑)。
高校3年の夏。自宅の庭にて。
家に帰ったらへとへとだし、時間もぜんぜん無かったですしね。だから「医者になりたいんだ」って言っても、学校の先生にしてみたら、何言ってんだ、今からじゃ無理だろうって感じに言われるような状態でした。でも、医者になりたいっていう気持ちは、なにも変わってなかったですし、 バレー部のOBたちがいっぱい合宿とかで来るんですけれど、そうすると、どこどこ大学の医学部とか歯学部とか、ユニフォームを着てくるわけです。 「格好いいな、早く大学入って、またバレーしたい」って、気持ちだけは常に前向きでした。担任の先生も、医者になりたいという気持ちを理解してくださって、頑張らせてくれたんです。すごく感謝してます。
まぁ、実際には好きな理系科目、数学や物理化学は授業は聞いてましたから、理解はしていたっていうことなんでしょうね。だから、高校3年の夏の大会で引退したあとは、それこそ「激れ」です。集中力と瞬発力は部活で培ったんでしょうかね、エアコンのない夏の自宅で座り続けてお尻にオデキができて、腹ばいになりながらひたすら勉強して、そのまま半年間激り続けて、幸い医学部(北海道大学)に合格できたいう流れです。当時は遠方からの受験者には合否結果の速報が電報で届いたんですが、北海道ですから“桜咲く”ではなくて、“ふきのとう見つけた。早く来い”でした。飛んで喜びましたね。「これでまたバレーボールができる!」(笑)
雪解けの季節の札幌。顔をのぞかせる、ふきのとう
—2回目は「生い立ち、そして医師を目指したきっかけ(後編)」になります。
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