【名医からのメッセージ~トップランナーが語る半生】001 中山 若樹(脳神経外科)第2回

【名医からのメッセージ~トップランナーが語る半生】001 中山 若樹(脳神経外科)第2回

各領域のプロフェッショナルである「名医」へ、その生い立ち、医師になったきっかけ、実績、そして未来へのメッセージをインタビュー。 
 
一般生活者へ最新医療を啓蒙、医師へのメンタルブロック解消により病院や医師選びの選択肢の拡大を実現し、個々にとっての最適な医療の受診につなげることを目的にしています。
1人目は脳動脈瘤や脳動静脈奇形などの脳血管障害におけるプロフェッショナル 中山若樹先生(柏葉脳神経外科病院 常務理事・副院長/高度脳血管病センター長)です。
8回にわたるシリーズの2回目は「生い立ち、そして医師を目指したきっかけ(後編)」になります。

第2回:上山博康先生の手術に魅せられて脳神経外科へ
東医体で2連覇、バレーボールで社会性を養う
—どんな大学生活でしたか。
入学したその日から、ずっとバレーボール一色でした。今の医学部の学生さんたちに聞いてみると、カリキュラムがどんどん前倒しになってるんですよね。 だから、部活を学生の最後までやるって、今はだいぶ困難な時代になってるみたいなんですけど。でも、僕らの頃はもうギリギリまでやってるのが当たり前で、6年生の夏の大会までフルにやってました。
それでもまだやりたくて、同じ部活の親友の一人と「わざと留年してもう1年学生やろっか」って。そしたら、もう1年バレーできるからと本気で考えましたけどね(笑)。
でも、「お金かかるし、やっぱり勉強するか」「そうしましょう」って。で、大学の6年生の夏で引退し、そこからまたクラスの多くの友達にすごく助けられて。同じ学年のみんなに尻を叩かれて、駆け込みで勉強をして、 ギリギリ間に合って国家試験に合格したっていう状態でしたね。
バレー部の親友とともに。無敵のコンビ?
バレー部の親友とともに。無敵のコンビ?
右は大平浩司先生(岩見沢市立総合病院副院長・消化器内科)
—先生がそこまで打ち込まれたバレーボールの魅力ってなんですか。
もちろん、プレー自体が爽快ですし、なんといっても、チームスポーツであること。テレビとかで見ると、本当に打ってる人しか目に入らないと思うんですけど、誰かが打ってる瞬間も他の5人は色々動き回って、這いずり回ってるんですよ。だからその6人の成果が得点につながるんですけど、本当に常に動いてて、常に6人の力が作用して出来上がってるスポーツで、そういう意味ではやっぱり集団の力みたいなもの、常にずっと互いを感じられるスポーツっていうところが面白かった、魅力だったですね。
『啐啄同機』っていう言葉があります。毎年、夏合宿を張っていた施設の館長さんが教えてくれた禅語です。卵から雛が生まれるときって、雛は自分の力だけでは卵の殻を破れないそうなんですね。でも殻の中だから外からは出ようとしているタイミングが分からない。でも親鳥は、なぜか雛が出ようとするタイミングを感じて、外からも殻をつついて、互いの力で殻を破るんだそうです。君たちはまさにそれを目指すんだって教えてもらいました。すごく共感して、部の旗にして、試合のときいつも掲げましたね。
実際強かったんですよ。医学部の部活っていうと、大学来て初めてそのスポーツを始めてるって人も多かったりするんですけれど、たまたま中学や高校で経験してる人もたくさんいて、また背が高い人がたくさんいたんです。
僕は183センチなんですけど。1番強かった時代のレギュラー6人の平均身長が186センチなんです。
だから「ドリームチーム」と呼ばれ、東日本医科学生体育大会(東医体)で2連覇しました。本当に背が高くて、強い。層が厚くて、上手い選手がぞろっと揃ったチームだったんで。コートに立つものだけではありません。常日頃、全員が一緒になって、どういう練習が必要か考えて、互いに分析して、皆で力を合わせて積み上げていく。仲間あってのものです。誰かに言われてやるのではなく、自分たちで作り上げていくところ、素晴らしい世界でした。
その後も先輩たちや後輩たちもたくさん頑張ってくれて、本当に楽しく最後まで過ごしましたね。
ほかの大学の選手たちと仲良くなれたのも大きな財産でした。東日本のベスト4と西日本のベスト4が集まる全日本医科学生大会があるんですけど、もちろん試合もしますけど、大交流会、大宴会です。そこでできた繋がりは大会が終わったあともずっと続くんですよね。ベレーを通じて得たものは大きかったと思います。
東医体での一コマ
東医体での一コマ。スパイクを打つ緑のユニフォームの背番号10が中山。
正面の壁には「啐啄同機」の部旗がある。
—バレーを通じて学んだこと、今に活きていることがあれば教えてください。
社会性を養ったかなと思っています。僕はお世辞にもお勉強にいそしむような学生ではなかったし、人間も未熟でした。でも、その大学の6年間部活やりながら、 いろんな境遇とか、いろんな立場とか、みんな賢い学生さんたちで、先輩も後輩の関係性の中で、チームとしてまとまっていくには、いろんなことを考えなきゃいけないっていうところがあって、色々ふざけ合う気心知れた仲間同士だけど、やっぱり互いのことを考えて行動することは大切だし、外部に対しても色々切度ある態度とか必要だったりとか、いろんなことをやっと大学生になって学んだような気がするんです。
それは、今こうやって医者として病院で、いろんな職種と複数のドクターと一緒に仕事していく上では、これはとても重要だったなと思ってるんです。
医療って、けっして1人ではできない仕事ですからね。
これは医者に限らず、どの職業でもそうだと思いますけど。自分がめんどくさい仕事、嫌な仕事、あるいは嫌な人、いい人たくさんいますけど。
それをきちんと調和をとりながらやっていくっていうのは、やっぱりある程度の自分のマインドみたいなのってすごく大事かなと思っていて。
それは高校生までの自分だったら、やっぱりダメだったと思うんですけど。大学生活の間に周りの友人たちにすごく育てられたような気がします。
試合後にて
試合後にて
脳神経外科の道へ
—脳神経外科へ進まれますが、その理由やきっかけについて教えてください。
振り返ると、ドクターになりたいと思って、小中高あたりは医師・作家の渡辺淳一さんの本をよく読んでたんですよ。
渡辺淳一さんって、元々札幌医科大学の整形外科医で若手のドクターだった時代に執筆した本がたくさんあるんですよね。整形外科の見習い時にずっと足をもたされて頑張ったんだとか、そういう医学の本が結構あるんです。
で、中学高校の頃は必然的に整形外科かな、みたいな。バレーボール部でも整形外科を目指す先輩たちも多かったり、なんとなくそういうイメージを持っていました。
でも、僕、ちょっとミーハーなので、なんかかっこいいとこ行きたいなところもあって。やっぱり命を預かる、命に直結するような科、外科系っていうマインドもあって、もの作りも好きだし。なので、命に直接繋がるようになるっていうと、脳外科か循環器外科っていう2択になっていたんです。
そこで臨床実習ですね、今はもう5年生で回るんですけど、当時は6年生で、まだその時点でも脳外科か循環器外科にするか全然決めてなくてどっちかかなと思ってて。
脳外科に実習で回った時に、当てられた症例が、当時大学の講師だった上山博康先生(札幌禎心会病院 特別顧問)がバイパスの手術をする患者さんだったんですね。当時は上山先生、今みたいにテレビなんて出てませんから、一般の人たちにはまだあまり知られていなかったかもしれませんけど、もう、ものすごい。
手術しながら、マシンガンのように喋るんだけれども、手元でその作り上げてるその画面で見える世界っていうのは素晴らしいと感じたというか、もちろん他の科も全部実習で回ってるとすごいなと思ったんですけど、脳外科の手術っていうのは、顕微鏡の下の中で、そこに1つの世界を作り上げていくっていうものがあるんです。
やっぱりこれはすごい世界だなっていうか、やっぱりこれができるようになりたいなと思って、それで脳外科に決めた感じです。
医学部6年目の臨床実習にて。なにもかもが新鮮だった。
—3回目は「医師になってからの軌跡(前編)」になります。
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