投稿日: 2024年4月26日 12:00 | 更新:2024年5月2日15:19
各領域のプロフェッショナルである「名医」へ、その生い立ち、医師になったきっかけ、実績、そして未来へのメッセージをインタビュー。
一般生活者へ最新医療を啓蒙、医師へのメンタルブロック解消により病院や医師選びの選択肢の拡大を実現し、個々にとっての最適な医療の受診につなげることを目的にしています。
一般生活者へ最新医療を啓蒙、医師へのメンタルブロック解消により病院や医師選びの選択肢の拡大を実現し、個々にとっての最適な医療の受診につなげることを目的にしています。
1人目は脳動脈瘤や脳動静脈奇形などの脳血管障害におけるプロフェッショナル 中山若樹先生(柏葉脳神経外科病院 常務理事・副院長/高度脳血管病センター長)です。
8回にわたるシリーズの4回目は「医師になってからの軌跡(後編)」になります。
8回にわたるシリーズの4回目は「医師になってからの軌跡(後編)」になります。
第4回:一生の恩師「石川先生」との3年の日々
臨床に戻って馬車馬のごとく、そして上山先生の下へ
—臨床に戻られて最初はいかがでしたか。
僕は研修医の期間に留学に行ったので、卒後5年目で大学に戻ったときは臨床経験がまだかなり未熟でしたから、また必死でした。大学院生であり、研修医であり、留学も行って、という形で。なんかすごくぎゅっと濃縮しちゃった卒後6年間なんです。卒後6年を終えるのが、 大学院卒業でもあり、留学終了でもあり、専門医試験受験でもありました。
研修医を終えて専門医になったあとは、関連の麻生脳神経外科病院(札幌)や、旭川赤十字病院などの関連施設で本当に馬車馬のように働いていました。働いてっていうか、学んでいましたね。本当に何もできない状態、当然ですよね、研修医がやっと終わった状態ですから、何もできない状態で。 で、麻生脳外科では同院での上司の瀧川先生や北大からやってくる寳金先生と黒田先生にいろいろと経験させていただいて、そして旭川赤十字病院では上山博康先生から学んでいました。ここは手術のメッカ、当時は比喩的表現で「虎の穴」(タイガーマスクに出てくる死に物狂いで挑む修練の場)とも呼ばれていた場所です。自分が学生時代に脳神経外科を決めたときに見た、上山先生の世界です。自分では何もできませんでしたけど、全てを吸収しようと、くらいついて傍で見ていました。
上山先生の下で学んだ弟子・孫弟子はたくさんいるわけですけど、その手術の技術や考え方は「上山式」って呼ばれていて、僕の手術に関するルーツもここにあります。上山博康先生は僕にとっての大師匠ですね。
一生の恩師「石川先生」との3年間
僕が旭川赤十字病院に行くときは、それまで同院に長くいた石川達哉先生が北大に講師として戻られるのと入れ替わりだったのですが、2002年に、その石川先生に呼び戻される形で、僕は北大のすぐ傍にある麻生脳神経外科病院に戻りました。ここで石川先生と3年間なんですけど、ほぼすべての手術症例に一緒に付き添っていただいて、手術を教えてもらったんです。
石川先生は旭川赤十字で上山先生の下で手術を頑張ってこられた先輩です。そして僕もその同じ空気を吸って経験してきてるわけですけど、「上山式を言葉にしよう」を合言葉に、上山先生のやっていたノウハウを論理的に言語化することを目指して、石川先生にびったり隣についてもらいながら自分のものにしてったというのが、その旭川赤十字から帰ってきた麻生脳神経外科病院での3年間です。
石川先生は、今は秋田県立循環器・脳脊髄センターの病院長ですね。この先生に本当にリアルに育てられた感じ。なんかもう一生の恩師という感じで、彼に作ってもらった子どもみたいなもんだと僕は思う。2005年の秋、お前に教えることはもうなくなったって言って、道外に栄転されてしまって、札幌からいなくなっちゃったんです(笑)。そのとき自分は30歳台半ば、非常に不安になりましたけど、でもこれからは自分の力でやらなければならないんだと肝に銘じましたね。
その後は学会でお会いしたり、メールでのやり取りなどで、手術を論理化する作業は続けました。今はこうして手術を文章化することを自分なりに膨らませて、僕が石川先生にしてもらったように、僕から後輩たちにできるだけのことを伝えたいと思って、日々を過ごしています。
あとは、黒田敏先生(富山大学脳神経外科教授)、研修医の時もよく面倒見ていただいたしあちこち一緒に行動しました。今じゃありえないでしょうけど、例えば海外の国際学会に行った時に2人で行って、2人でツインの部屋に泊まる。よくあちこちの学会に行ったりもして、黒田先生にも本当にお世話になりましたね。
2005年に、石川先生が北大を出られたあと、黒田先生から声を掛けられて、北大に呼んでいただきました。そのおかげで今があると思っています。
外部との交流が広がった北大時代
—北大では2005年から17年間ですね
17年間、だいぶ長いですよね。生い立ちからお話しさせていただいて、なんとなくわかると思いますけど、僕はコツコツと真面目に勉強を積み重ねたり、論文いっぱい書いたりとか、そういうタイプじゃないですし、出世欲もあまりありませんでした。
僕の元々のモチベーションってあんまりそういうところではなくて、 やっぱり中田先生と一緒にカルフォルニアと新潟で本当に真理を追求するっていう世界があるんだなって学んだし、それは自分が憧れてきた手術治療にも当てはまると思っていましたから、とにかくそれを極めたい。自分も受け継いできたことをさらに深めて洗練させて、そして論理化して、また新しい気づきを発見したい。一挙手一投足の理想を追い求めて、コツを編み出していく。そして、それを広めたいし、また沢山の次世代に受け渡したい。そういうことをやりたかったんですね。たまたまそういうことを学んでく境遇にはすごく恵まれてきてたと思うんです。
僕みたいな人間って。あんまり大学っぽくないと思うんだけど、でも、大学っていう場所を与えていただいて、これが結果的にはすごく良かったなと思っています。
道外も含めて他の大学系とか、他の施設の先生方との接点がすごくたくさん生まれましたし、一応僕がやってることも、上山先生、寳金先生、石川先生、黒田先生の大先輩たちから色々教わって受け継いで、自分なりに咀嚼して、それを膨らましてって自分がいるわけですけれど、それを注目してもらえるっていうか、話を聞いてもらえるっていうのも大学にいたからだったんだろうとも思いますし、 そこでいろんな外部の先生との繋がりができて、世界が広がったなっていうのは、やっぱりこの大学に置いていただいていたからなのかなと思うんです。
それと、ドクターたちだけでなくて、いろんな手術機器などのメーカーさんですね。大学ですから、先進的な機器をとりあえず使ってみてくださいって、持ってきてくれるチャンスに巡り合えるわけですよね。そうすると、それを使ったらこんなことができるんじゃないかみたいなプレゼンをすることができて、また注目していただけたりする。
そういう大型の先進機器に触れられるっていうのも大学にいたからだと思うんですね。この長かった17年ですが、本当にそういうチャンス、人と物のチャンスに恵まれた機会だったなって思います。 それと後輩たちとたくさん触れ合うことができましたしね。脳外科に入ってきてくれる後輩だけでなく、未来ある多くの学生さんたちとの接点があることも、すごく嬉しかったですね。
—5回目は「私の現在位置と未来について(前編)」になります。
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