【名医からのメッセージ~トップランナーが語る半生】002 大圃 研(消化管内科)第3回

【名医からのメッセージ~トップランナーが語る半生】002 大圃 研(消化器内科)第3回

各領域のプロフェッショナルである「名医」へ、その生い立ち、医師になったきっかけ、実績、そして未来へのメッセージをインタビュー。 
 
一般生活者へ最新医療を啓蒙、医師へのメンタルブロック解消により病院や医師選びの選択肢の拡大を実現し、個々にとっての最適な医療の受診につなげることを目的にしています。
2人目は消化器内視鏡治療におけるプロフェッショナル 大圃研先生(NTT東日本関東病院 消化管内科部長・内視鏡部部長)です。
8回にわたるシリーズの3回目は「生い立ち、そして医師を目指したきっかけ(後編)」になります。

第3回:医局に属さず研修医スタートへ
空手とお酒
—日本大学医学部に進まれます。どんな大学生活でしたか
かなり楽しくやっていましたね。かなりダメな生活です(笑)。
空手部に入っていました。父も叔父も同じ日大の空手部で、代々みんな追っかけて同じことやっているって感じです。空手はすごく強かったです。僕が入ったころは道場の息子さんやインターハイに出た人がいたりして、これ医学部の空手部レベルじゃないよねって感じで、医学部じゃない本部の空手の大会にも出ていました。先輩は関東医科歯科リーグを10連覇していて、すごく強かったのです。やばい人がたくさんいました(笑)。
何度か空手部をやめたいと思ったことはあるのですが、怖くてやめられなくて、でも最後はキャプテンをやっていて、そこそこ束ねる感覚はあったのかもしれないですね。ちなみに父は空手部のOB会長です。
時代もあるのですが、とにかく「飲み」がすごかった。酒ばかりを飲んだり、飲まされたり、連日そういう感じでした。部活絡みで行くことが多かったですが、それ以外の人とも。
日大は板橋にあるので、池袋を根城にして、朝まで飲んでから真っ赤な顔をして学校に来て、空手だけやっていました。空手して飲んでを繰り返す、そんな感じでした。
学業の方はまったく真面目にやっていなくて、5年生の終わりでしょうか、親が学校に呼び出されて「このままだと国家試験100%落ちます」と。親からは「遊ぶのはいいけど、留年や国試浪人はするなよ。」と言われ、6年生から勉強しはじめました。
その頃は知らないことばかりで友達に驚かれることもありましたが、一生懸命勉強して、最後の頃の成績は平均くらいまでになりました。
国家試験も資格試験だから受かれば一緒と思って、要領良くやりましたけど、もうちょっとちゃんとやっておけば良かったなと、医者になってから思うことがたくさんありました。
大学時代の友人たちと
大学時代の友人たちと(前列で肩を組んでいる右側が大圃)
実家がクリニックへ形態変更、消化器内科に進む
—消化器内科を専攻されたきっかけについて教えてください
家族全員が消化器外科医なので、やるのだったら消化器と思っていました。小学校の卒業アルバムにも「お父さんのあとを継いで医者になる」と書いているので、父からの影響は大きかったです。
父も祖父も消化器外科の医局で、当然三代目の僕も消化器外科へ進むつもりでした。
ところが、6年生のとき、父の病院が入院施設を全部やめて、クリニックに形態を変更することになり、これから外科医になって手術の手技とか一生懸命習っても、実家ではできなくなってしまいました。
そこで、外科に進んで若い頃にしかできないことをやって実家に帰るか、内科に進んで若い頃にやったことを年をとっても活かせる方でいくのかと悩んだのですが、やっぱり自分がやったことを無駄にせず活かしたいと思い、僕は消化器外科でなくて消化器内科に進むことにしました。
大学時代の病院実習
大学時代の病院実習(左が大圃)
—医局に属せずにJR東京総合病院に勤務されます
当時、医局に入らない人はほとんど皆無で、普通のお医者さんになるのであれば、99%は医局に入っていました。
ただ、僕の場合、散々、消化器外科に行くと言っていて、消化器外科の医局の先生にもお世話になっていたのですが、6年生での方針変更で、消化器外科の先生たちは怒ってしまって、大学病院に残れる空気がなくなってしまって・・・。
大学の消化器内科も、そもそも消化器外科に進むつもりだったので、あまり真面目に実習していなかったので、選びにくい雰囲気でした。
研修医制度もない時代だったので、正直行くところがなくなったことを父に相談したところ、父の知人からJR東京総合病院に空きがあると教えてもらって面接して入りました。
なので、病院見学もせずにJR東京総合病院に入っています。全然ダメですね。今でいうなら意識低い系です。
—4回目は「医師になってからの軌跡(前編)」になります。
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