【名医からのメッセージ~トップランナーが語る半生】002 大圃 研(消化管内科)第4回

【名医からのメッセージ~トップランナーが語る半生】002 大圃 研(消化器内科)第4回

各領域のプロフェッショナルである「名医」へ、その生い立ち、医師になったきっかけ、実績、そして未来へのメッセージをインタビュー。 
 
一般生活者へ最新医療を啓蒙、医師へのメンタルブロック解消により病院や医師選びの選択肢の拡大を実現し、個々にとっての最適な医療の受診につなげることを目的にしています。
2人目は消化器内視鏡治療におけるプロフェッショナル 大圃研先生(NTT東日本関東病院 消化管内科部長・内視鏡部部長)です。
8回にわたるシリーズの4回目は「医師になってからの軌跡(前編)」になります。

第4回:他とは異なる境遇を力に我が道を邁進
研修医はフットワークと体力
—研修医時代のエピソードを教えてください。
研修医で集まって、病院に泊まったり、夜遅くまでいたりとか、住んでいる人がいたりとか、まだそういう時代だったので楽しく、一生懸命やっていたと思います。
東大出身の医師も多い病院だったので、頭では勝てない(笑)と思ったので、とにかく「体力だけは自信があります」と言って、体はよく動かす研修医でした。まあまあ評判は良かったし、可愛がられていたとも思います。
いつも朝から夜遅くまで残っていて、先輩医師からたくさんのチャンスをもらいました。夜間では残っている研修医は少なく、例えば、急変での気管挿管などに対応しました。僕は病院に張り付いている状態だったので、手技はたくさんさせてもらって、上達していきました。
高尚な思いは特にはなかったのですが、医師として技術的なことを含めて臨床の経験ができることで充実はしていました。
研修医時に同期と(左上が大圃)
研修医時に同期と(左上が大圃)
月給2万円時代も経験しながらわが道を進む
—そこから非常勤として勤務されます
医師3年目からです。当時は後期研修医制度もなく、医局制度もよく理解していなかったので、そのまま病院に残れると思っていたのですが、3年目がスタートする2週間前くらいにいきなり呼ばれ、部長から「やっぱり雇えない」と・・・。
部長から他の病院を紹介されましたが、そこは結核関連の病院で、それはないでしょ、という感じでした。僕としては、ここにいる消化器の先生たちにいろいろと教えてほしいから、残りたいと思っていて、どこの病院でもいいから行きたいという訳でもなかったので「給料なしでもいいから残してくれ」と言いました。
本当に勢いで言ったところもあるのですが、気持ちとしてはそんな感じでした。
そしたら、本当に無給にされて、病院から謝礼として月々2万円いただいていました。
当時はそれくらいの給料で働くのが大学病院あたりだと当たり前で、平日にアルバイトに行って生計を立てたりする時代でした。でも、僕の場合は教えてもらいたいと思った先生がいたから残ったので。病院からは自由にアルバイトに行っていいと言われましたが平日にはアルバイトせず、月に2回だけ、土曜の昼から月曜の早朝まで救急病院で当直をしていました。2泊3日ですので、今の働き方改革ではアウトですけどね(笑)。
ただ「無給でいいから残してくれ」って言って残してもらったことに対して、恨みやつらみなどはなかったです。そんな思いは何もなくて、残してもらって良かった、と思っていました。人に教わることができて、月2回救急病院で当直すれば、別に困ることはないからいいやって、あんまり気にしていなかったですし、普通の常勤の人と同じだけ働いていましたし、当直もしていました。
今の人だと、「これくらいの給料だから、これしか働かない」ってなりますが、「でも結局それをやると損するのは自分だよ」と思います。それを10年間やったとしたら、給料は同じだけど、沢山の機会損失があるわけです。
もっと仕事ができるのに、自分の業務じゃないからやらないと言った人は、最終的にはその分の経験も知識も技術も得ることができず、若い時の大事な時間を浪費するだけになってしまうので、結局は自分にとっては1番マイナスなのです。目先のことよりも、そっちのほうがよっぽど大事だと思います。
僕はそんなことは考えていなかったし、本質的に父の影響もあって、目先の損得勘定で動いていなかったので、お金のことよりも、ここで教わることだけが大切で他はどうでも良かったです。
月2万円の待遇は3年間ほど続きましたが、応援してくれる人も出てきて、そこから少しずつですが待遇は改善していきました。ただ医局制度の弊害もあって、最後まで非常勤でした。
ESDとの出会い
—ESDに進まれたきっかけを教えてください
ESD(内視鏡的粘膜下層剥離術)が開発されたのは2000年頃です。すぐに知って、やりたいと思いました。
でも、この術式は始まったばかりで確立するかもわからないし、危なすぎると批判が多かった時代なので、消滅してもおかしくない技術でした。それでもやりたかった、革新的なものに出会えてチャンスだと思いましたし、面白いからやっていました。のめりこんでいきました。
ESDの黎明期で他の病院でも挑戦していましたが、何時間もかかって、こんな手技はやっちゃダメだとかなり、中止とか禁止になった病院がたくさんありました。
僕らも当時は4時間、5時間、長くなると10時間くらいやっていました。非常勤なのでサポートしてくれる医師はいなかったのですが、看護師さんたちは夜遅くまで付き合ってくれました。そのお蔭で乗り越えることができました。その看護師さんたちにはすごく感謝しています。
ESDを支えてくれた看護師さんと(JR東京総合病院時代)
—ESDのエキスパートへ
自由にやれる環境が大きかったです。普通であれば何時間もやっていたらストップがかかりますが、非常勤であるがゆえに部長からの命令も制約もないので自由にできて、他の施設よりも先に進みました。
そうして、自院でのESDの実施数が多くなっていくにつれて、あちこちの病院から「ESDを見せてほしい」と言われて、全国をまわりはじめていました。
平日に行うので、常勤医だったら日常の診察があるのでできないですが、非常勤なので自由に行けていました。ある意味ガバナンスが効いていない環境でしたが、それが良かったと思っています。

指導風景 

—そこまで突き進められる理由を教えてください
大学卒業後の医師たちが医局に入ってキャリアを積んでいく中、自分だけがひとりポツンと違う環境にいる状態で、他の人がどうやって学んでいるのか全くわからない状態でした。
医者になったら、父親のせいでしょうか、泊まり込みで帰れないのは当たり前だと思っていましたが、みんなはもっとハードに臨床を重ね、すごく勉強したりしているものだと考えていました。大きな差がついてしまい、自分は医者としてまともでなくなってしまうという脅迫観念にずっと駆られていました。
だから常に貪欲にやっていました。でも後になって、みんながみんなそこまでハードにやっているのではなかった、と気づきましたがね(笑)
—5回目は「医師になってからの軌跡(後編)」になります。
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