【連載:在宅医療 北から南から】005 五島正裕(兵庫)第1回

【連載:在宅医療 北から南から】005 五島正裕(兵庫)第1回

2025年問題が迫る中、高齢化が加速し、在宅医療が重要な時代となっています。本連載では、在宅医療の現状、課題、未来を伝えることをテーマに、実際の現場で活躍されている医療従事者の皆さまに、明るく、楽しく、わかりやすく語っていただき、在宅医療の認知浸透を図るとともに、在宅医療を検討したい患者様とそのご家族様に、在宅医療を知っていただくことを目的にしています。
5人目は神戸で2011年から「ホームケアクリニック こうべ」を運営されています五島正裕先生です。
3回にわたるシリーズの1回目は背景編として、生い立ち、医師になったきっかけについてお聞きしました。
神戸での幼少期と高校時代
—お生まれについて教えてください
神戸市垂水区の生まれです。神戸の西の端で、明石市のすぐ隣です。そういえば子供の頃、冬も終わりに近づくとそこら中で郷土料理(?)の「イカナゴの釘煮」の匂いが立ち込めていました。最近はあまり見かけなくなったかな。ちなみによく医師の親は医師で裕福な家庭で育ったみたいなことがありますが、私の家は自営業で普通でした。中学までは地元の公立校に通っていました。軟式テニス部に入っていて、早朝練習の前に部内の同級生とフェンスを乗り越えて学校に入り、先輩たちがくる前に自主的に練習したりして熱中していました。
小学生時代
小学生のころ
中学時代、得意な科目、例えば数学、理科、英語はできていたのですが、それ以外はあまり勉強していなくて、当時は公立の高校に進学するには全科目での内申点が重要だったため思うような高校を目指すことは難しく、科目数の少ない私立進学校を目指す塾に通っていました。地元の私立高校を目指していたのですが願いは叶わず、愛媛県松山市の愛光高校に進学しました。
中学生のころ(真ん中が私)
中学生のころ(中央が私)
—ご実家から離れての松山市での生活はいかがでしたか
私もそうでしたが、7〜8割くらいが寮生活で親元から離れていて寝食を共にしていたので、自由でとても楽しかったですね。あまり大きな声では言えませんが、週末の昼間はバイクでツーリング、夜はディスコ(懐かしい響き!)に通ったりしながら青春を謳歌していました(笑)。ただ、自分に任されている部分が大きいので、自立していきましたね。その良さはあり、あまり覚えていませんが、きっと勉強もしていたんだと思います。
医学部への道のり
—医学部を目指したきっかけについて教えてください
高校の同期は医学部を目指す人が多かったので自然と医者という職業を意識し始めて、困っている人を助けるというのは素晴らしい仕事だろうなと思うようになりました。親が自営業だったこともあり、いわゆる会社勤めのサラリーマンというものもイメージできず、研究者もこの頃はちょっと違うかなという感じもあって、やはり身近なところにいて、困っている人、辛い人を助ける仕事はいいなと思い、医学部を目指しました。
高校時代(前列中央が私)
高校時代(前列中央が私)
—医学部に進まれていかがでしたか
地元の神戸大学医学部に進学し、親元の自宅から通っていましたが、最初の2年間はあまり勉強の方には気持ちが向かず、結果として3年進学時に留年をしてしまいました。この時、期待してくれている親への申し訳なさと、自分の人生で何かを変えなければいけないという思いに駆られ、家を出て自活することを決めました。
ひとまず、一人暮らしをして大阪大学医学部に通っていた高校の同級生の家に転がり込みました。そこからはすべて自分で賄う生活になったのですが、当時の大学の学費は年間で252,000円だったので、ある程度アルバイトをすれば何とかなるかと思いました。とにかくまずは家を借りるための資金を貯めることからスタートしたんです。
当時の神戸大学教養部の留年は、落とした科目だけ1年間かけて取ればいいということだったので、結構自由な時間がありました。夜は家庭教師を掛け持ちし、昼間はほぼ毎日引越屋さんで働いて4トントラックの運転手もしていました。その後進級して大学が忙しくなると、昼間の引越屋さんの仕事を週末以外はできなくなったですが、夜の家庭教師は卒業するまでやり続けました。
4年生からは友人に誘われてお金のかかる競技スキー部に入ってしまい、治験のバイト(被験者です!)、スキー場のペンション住み込みのバイト、その他にも色々やってバイト人生みたいになっていました。
こう話すとまるで自分が苦学生だったかのようにも思えなくはないのですが、当時全く苦しいと思っていなかったので、苦学生ではなかったのだと思います。卒業するまで、金銭面での親のサポートはゼロでしたが、生活することがどういうことかということも身をもって学べたので、このわがままを見守ってくれた親には感謝しています。
大学時代、同期での集合写真(前列左から3番目が私)
臨床実習での経験、そして外科医へ
—研修でのエピソードについて教えてください
臨床実習が始まる前には、小児科に行きたいと思っていました。辛そうな顔をしている子どもを笑顔にしてあげるのっていいな、子どもの病気を治してあげたいなと漠然と考えていました。しかし、大学病院の小児科にいる子どもたちは、かなり重い病気で完治しないような子たちも多く、一番最初の臨床実習が小児科だったのですが、実習の2日目ぐらいですっかり心が折れてしまいました。情けない話ですが、自分には小児科は無理だと思いました。
大学時代、先生と同期での集合写真(中央で左手をあげているのが私)
—外科(神戸大学第一外科)に進まれます
小児科の実習後、何科に進むかを考えたときに、そもそも自分がなりたい医者って何なのだろうと考えるようになりました。僕たちの世代はみんな「ブラックジャック」を読んで育ったと思うのですが、ブラックジャックは病気がらみで困っている人を見つけては、その人の病気が何であるかを診断し、どんな治療が正しいかを判断し、自分で手術をする。術後のフォローはもちろんのこと、場合によってはその人の最期まで看る。病気に関わることを通じてその人の人生を支えていました。
これに最も近いと思えたのが当時の外科でした。私は実はそういう医者になりたかったんだということに気づいたんです。それで、外科に決めました。
当時の神戸大学では外科が第一外科と第二外科に分かれていて、第一外科は消化器、乳腺、甲状腺、第二外科は肺、心臓、血管が専門領域でした。自分は第一外科を選びました。
—2回目は研修医としての経験や、アメリカでの留学生活、在宅医療へのアプローチについてお話しいただきます。お楽しみに。
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