【連載:在宅医療 北から南から】005 五島正裕(兵庫)第2回

【連載:在宅医療 北から南から】005 五島正裕(兵庫)第2回

2025年問題が迫る中、高齢化が加速し、在宅医療が重要な時代となっています。本連載では、在宅医療の現状、課題、未来を伝えることをテーマに、実際の現場で活躍されている医療従事者の皆さまに、明るく、楽しく、わかりやすく語っていただき、在宅医療の認知浸透を図るとともに、在宅医療を検討したい患者様とそのご家族様に、在宅医療を知っていただくことを目的にしています。
5人目は神戸で2011年から「ホームケアクリニック こうべ」を運営されています五島正裕先生です。
3回にわたるシリーズの2回目は、研修医としての経験や、アメリカでの留学生活、在宅医療へのアプローチについてお聞きしました。
研修医としてのスタート
—医師生活がスタート、研修期間はいかがでしたか
当時の神戸大学第一外科の慣例では、大学病院や市中病院での数年間の研修後、医局の研究生か大学院生として研究室に入り、一定期間研究に専念するのが一般的でした。私もまず大学病院で1年間研修し、その後複数の市中病院で研修、診療を行いました。
その後、その仕事ぶりに心から憧れた竹山宜典先生(前近畿大学医学部外科主任教授)の研究室に入りたいと願いましたところ、竹山先生から「まずは基礎でしっかり勉強してこい」と言われ、神戸大学大学院の第2生理学教室(現、分子生物学教室)に入りました。
そこではがん遺伝子や分子標的薬の基礎研究が行われ、医者だけではなく多様なバックグラウンドを持つ人々が集まってかなりストイックに研究生活を送っていました。毎日朝から時には日付が変わる時間まで実験をし続けるという、それまでとは全く違った日々になりました。学生時代にもうちょっと勉強しとけばよかったなあと強く思う日々でもありました。
予定では2年間の研究後、第一外科の研究室に戻る予定でしたが、気が付けば結局3年間どっぷり基礎研究に没頭しました。
その後、1年間第一外科で憧れの竹山先生の下、研究を行いましたが、その研究結果がアメリカでの国際学会(SSAT)で優秀演題に選ばれ、学会開催直前に1泊2日リゾートホテルでの事前演題発表+懇親会に招待されました。
オシャレなカクテルパーティーに豪華な食事、昼間にはクルージングなどもあり、当時のアメリカの消化器外科の重鎮たちに囲まれた夢のような2日間を過ごしたこの時、「いつかはまたこのアメリカに戻ってくるぞ!」と強く心に誓いました。
アメリカでの研究と経験
—アメリカへ留学されましたが、どのような研究をされたのでしょうか
大学院卒業から約1年後、学生時代からの知り合いであり神戸大学第一外科の先輩でもある小谷譲治先生(現、神戸大学医学部救急医学分野教授)が留学していたニュージャージー医科歯科大学(UMDNJ)の外科学研究室に入り、2年間敗血症の研究に取り組みました。
小谷先生はその後日本の敗血症の重鎮になられましたが、当時は研究のことのみならず❝how to survive in USA❞もしっかりと教えて頂き、素晴らしい留学生活を始めることができました。
アメリカならではの環境の整った研究室ではのびのびと充実した研究生活を送ることができました。そしてさらに何より毎日が刺激的なこれまでとは全く違った海外生活にも魅了され、気付けば次の新たな留学先を探し始めていました。
そして実際に興味のある研究をしているところに片っ端から履歴書を送ったところ多くの研究室から返事があり、面接を経て3年目からはニューヨークのマンハッタンにあるのコーネル大学医学部血液・腫瘍内科の研究室に移ることができました。
コーネル大学でのデスクにて
コーネル大学でのデスクにて
—コーネル大学ではどのような研究をされていましたか
それまでは敗血症の研究をしていたのですが、癌の研究に興味を持ち、血液・腫瘍内科で研究を始めることになりました。
当時のその研究室では分子生物学的手法を用いながら幹細胞、ノックアウトマウスなどを使って血管新生や癌の転移に関する世界トップレベルの研究がなされていました。
血液から使いたい細胞を分離するセルソーターという機器があるのですが、B&Dなどの企業もタイアップしてメチャクチャ高価なものを使っていました。その他にも色々と企業とコラボしており、産学連携はかなり自由に行われていました。
しかしそこは、というかそのようなトップクラスの研究室ではもちろんのことですが結果が全てであり、成果を出すことが日々求められる本当に厳しい環境でした。
ここではプライドを持って真面目に続けてさえいればいつかは報われるという甘い考えは全く通用せず、もろくも崩れ去りました。
自分の研究がなかなか結果を出せずあまりに苦しい日々であったため、トトロの「歩こう、歩こう、わたしは元気〜」を毎朝リアルにぶつぶつと口ずさみながらマンハッタンのビジネス街を歩いて通勤する毎日となり、結局1年で辞めることを決意しました…。
そのことをボスに伝えるとあんなに毎日大声で怒鳴っていたのになんと実はすでに翌年以降の就労ビザの手続きも進めてくれていたとのことでした。しかしマンハッタン生活を心から満喫していた妻からの「もう少し頑張ってみる?」との言葉も当時の自分には響かず、結局そのまま日本に戻ることを選びました。
後ろに見えているのがイーストリバー沿いにあるコーネル大学医学部(New York Hospital)
後ろに見えているのがイーストリバー沿いにあるコーネル大学医学部(New York Hospital)
帰国後のキャリアと転機
—日本に戻ってきて外科医として臨床に戻りますが、その理由をお聞かせください
神戸大学第一外科の医局からは大学に戻る選択肢も提案されましたが、正直研究のある生活にはちょっとしたトラウマと共に思いがなくなってしまい、初心に戻って純粋に外科医としてのキャリアを再開することにしました。
周りからは留学したことの意味を問われることもありましたが、留学で学問のみならず多くの経験をしたことにより世界観、視野が広がったことは大きな財産になったと今でも思っています。
また家族との時間を大切にしたい気持ちも強くなり、普通に手術ができて家族との時間も十分に持てる地方の医療機関に行くことにしました。
外科医時代、病棟の仲間と(最後列左から2人目が私)
外科医時代、病棟の仲間と(最後列左から2人目が私)
—そこから緩和医療に進まれますね
その後、7年間にわたり2つの地方公立病院で外科医として勤務しました。ちょうど腹腔鏡手術が流行り始めた頃で手術も楽しく、また地方の病院ならではなのですが、診断から終末期に至るまで患者さんと関わることができました。
そこで遅ればせながらやっと終末期ケアの重要性に少しずつ気づき始めたんです。多くの外科医たちは手術患者をみることに積極的でしたが、終末期の患者を担当することには消極的であり、私はそこに強い違和感を感じました。
ああ、やっぱり自分は手術だけがしたくて外科医になったんではなかったんだなと再認識しました。
ちなみに病院勤務時代には手術後などに数え切れないほどの感謝の言葉を患者さんやご家族から頂いてきました。ほんと、このひとつひとつの言葉が私たち外科医の明日への活力につながるんですよ。この言葉のおかげでしんどい仕事も頑張ってこなしていけました。
また別に亡くなられる少し前の患者さんや亡くなられた後のご家族から感謝の言葉を頂くこともあるんですが、これらには先ほどの手術後の感謝の言葉とは全く違ったものを感じました。
すぐ後の死を意識した患者さんから「先生、ありがとうね」の言葉を頂いたことや、亡くなった後にご家族が涙ながらに感謝の言葉を口にされる姿もまた、自分が緩和へと方向転換する大きな後押しとなったのです。
この頃はちょうど緩和医療が一般病院にも広がり始め、緩和ケアチームが各病院にでき始めた時期で、当時西脇市立西脇病院で外科医として働いていた私はその病院での最初の緩和ケアチーム立ち上げに携わることができました。
この時、院内の医師たちの中にはあまり理解を示してくれなかった人も正直多くおられましたが、看護師さんや薬剤師さんたちの緩和医療に対する強い思いは感じることができました。そして多職種協働がとても大事であることを体感できました。
そんな折、日本緩和医療学会主催のPEACEプロジェクトの研修会が兵庫県で開催されることを知り、参加する機会を得ました。
PEACE研修会では、痛みや呼吸困難への対処法、患者の希望に応える方法など様々な緩和にまつわる知識を体系的に学ぶことができ、非常に感銘を受けました。病院では責任ある立場として外科診療に携わり、まさに脂の乗り切った外科医生活を送っていたのですが、この日を境に緩和医療に転向する決意が固まり始めました。
外科医時代、手術室にて(左側が私)
外科医時代、手術室にて(左側が私)
—関本雅子先生との出会いが運命を決める
今では拠点病院で施設要件として開催されているPEACE研修会ですが、私が参加した会は兵庫県単位での開催となり、神戸市垂水区塩屋の海の見える研修施設で行われました。そこで地域連携・在宅緩和ケアに関するセッションで講義をされた関本雅子先生(関本クリニック→現、かえでホームケアクリニック)のお話に感動し、目から鱗がボロボロと落ちました。ああ、病院の外にはこんな世界があるんだと初めて知ったんです。いても立っても入れなくなった私は早速、その日の夜すぐに関本先生に訪問診療見学を希望するメールを送りました。
これが在宅緩和医療に向けたまさに第一歩となりました。
程なくして実際に診療同行させて頂く機会を作ってくださったのですが、関本先生の診療はとても丁寧で心がこもっており、何よりも患者さんやそのご家族の先生を見る目、そしてその場の空気感がすべてを物語っていました。お薬の調整だけではなくこの空気感を家の中で作ることが在宅緩和ケアなんだということを知りました。
やはり自分もこの世界に入りたいと強く思った瞬間でした。その後、関本先生より六甲病院緩和ケア内科の安保博文先生をご紹介頂き、同緩和ケア病棟で1ヶ月の研修を受けさせて頂く機会を得ることができました。ここで安保先生と当時そこで勤務されていた山川宣先生(現、神鋼病院緩和治療科部長)から教えて頂いた数々のことは今の私の診療を支える強固な土台になっています。
薬剤調整のことはもちろんのこと、ベッドサイドでの作法から面談室での座り位置、その他に緩和ケア医としての心構えに至るまで、多岐にわたる内容のご指導を頂けました。その後1年間、大阪北ホームケアクリニック(白山宏人先生)、林山クリニック(故、梁勝則先生)、拓海会神経内科クリニック(藤田拓司先生)の3か所で非常勤医として働かせて頂き、在宅緩和ケアの基本や診療所運営を学びました。
そしてこの3人の先生方にはとにかく在宅医療が面白いんだっていうことをしっかりと伝えて頂きました。
このあまりにも濃い1年間の「研修」を経て、2011年春に「ホームケアクリニック こうべ」を開業しました。
クリニックの設立と在宅医療の実践
—「ホームケアクリニック こうべ」の開業時はいかがでしたか
非常勤で勤めていた大阪北ホームケアクリニックでは、医師、看護師(クリニックナース)、事務員の3業種体制で訪問診療を行っていたので、それを踏襲するかたちで、医師は私1人、看護師(クリニックナース)1人、事務員1人、プラス妻が看護師なので看護師(クリニックナース)兼事務員として入ってもらい、計4人でスタートしました。
もう、めちゃくちゃ楽しかったですね。僕らの仕事はほぼ100%紹介だけで成り立っている仕事なので、地域の病院へ挨拶回りに行ったり、在宅医の集まりや勉強会に参加したりして世界がどんどん広がり、とにかく楽しかったです。
緩和医療って患者さんはもちろんのこと、そのご家族の気持ちや思いにもしっかりと寄り添っていくっていうことがとても大事な部分だと思うのですが、実際の在宅医療の現場では、自然と患者さんやご家族との距離がとても近くなるんでそこは大きなメリットですよね。
ご自宅にお邪魔させてもらって私たち自身もその方々の生活の一部になりながらやっていけるのでさらにもう一歩近づくことができます。
お薬の調整などによる症状緩和は自身が勉強と経験を続ければ緩和ケア病棟と同様のことができる(と信じている!?)のですが、この患者さんの生活に入り込んで全体を調整していくことができるのは緩和ケア病棟にはない在宅緩和ケアの魅力です。先述の家の中の空気感の調整ですね。これがとても大事なんですよ。
「ホームケアクリニックこうべ」創立メンバー
「ホームケアクリニックこうべ」創立メンバー
—現在の体制について教えてください
今、診療所(ホームケアクリニック こうべ)は、常勤の医師が私を含めて2人、非常勤は近隣の病院から3人が半日ずつ来てくれています。
事務員は3人です。訪問看護ステーション(訪問看護ステーション あおいそら)は看護師9人とリハビリ4人、居宅の事業所(居宅介護支援事業所あおいそら)はケアマネの事業所ですが、ケアマネ1人でやっています。あとは、今年2月にオープンしたばかりのヘルパー事業所(定期巡回・随時対応あおいそら長田)は現在ヘルパーさんが6人です。
—順調に事業拡大していますね
私自身には事業拡大欲みたいなものは正直ないんです。自分がやりたいことを実現していっただけです。
質を追求するにあたり必要だと感じたものを整えていったらこうなったということです。本当のところ、診療所だけでやっていく方がその分悩み事も減りますし気楽で良いのですが(笑)、それだと見えないこと、手が届かないことがどうしても多くなるんです。
開業当初は近隣の訪問看護ステーションと組んでやっていました。地域柄か非常に熱心なステーションが多く、「在宅のお作法」を含めたくさんのことを教えて頂きました。連携は主にSNSを利用しできるだけ密にしていたのですが、だんだんともっと深く連携した方がより患者さんの細かいところまでサポートができると思うようになり、結局自前で訪問看護ステーションを作ることになりました。
もちろん同じ事務所で机を並べ、いつでもすぐに顔を見て相談できる環境にしました。在宅医療の質の評価は難しく、永遠のテーマではありますが、この時点でホームケアクリニックこうべが提供していることの質がぐんと上がったことは強く体感しました。自己満足だけなのかもしれませんが(笑)。
そして次に気になったのが介護職との連携です。
この連携がうまくいくとさらに在宅療養の質は格段に上がるのではないかと思ったんです。そこでまずはそのつなぎ役であるケアマネージャーをチームに入れました。そのケアマネにはしっかりとホームケアクリニックこうべイズムを持って動いて頂きました。
すると期待していた通り、一気に見える世界が広がり、私たちのチームはそれまで以上に広い視野で患者さんとご家族をケアできるようになったんです。そうなってくると今度はさらに現場にいる介護職の仕事の重要性が浮かび上がってきたんです。ヘルパーさんの立ち位置っていうのは患者さんとそのご家族のすぐ横なんですよね。
だからヘルパーさんには患者さんやご家族は私たち「医療者」の前とはまた別の表情も見せてくれるんですよ。患者さんやご家族の情報はどの職種へも入ってきますが、ヘルパーさんへも別の角度からしっかりと入ってきているんです。
このヘルパーさんたちにチームの一員としての役割を知って頂き、そしてその力をチーム内で発揮してもらうことができれば、私たちのチームは間違いなくさらに次の段階に行けると確信しています。
—最終回の3回目は「ホームケアクリニック こうべ」の現在、そして未来についてお話しいただきます。お楽しみに。
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