投稿日: 2024年7月5日 12:00 | 更新:2024年7月6日20:00
各領域のプロフェッショナルである「名医」へ、その生い立ち、医師になったきっかけ、実績、そして未来へのメッセージをインタビュー。
一般生活者へ最新医療を啓蒙、医師へのメンタルブロック解消により病院や医師選びの選択肢の拡大を実現し、個々にとっての最適な医療の受診につなげることを目的にしています。
一般生活者へ最新医療を啓蒙、医師へのメンタルブロック解消により病院や医師選びの選択肢の拡大を実現し、個々にとっての最適な医療の受診につなげることを目的にしています。
3人目は乳がん治療におけるプロフェッショナル 大野真司先生(相良病院 院長)です。
7回にわたるシリーズの1回目は「生い立ち、そして医師を目指したきっかけ(前編)」になります。
7回にわたるシリーズの1回目は「生い立ち、そして医師を目指したきっかけ(前編)」になります。
第1回:門司区、そして福岡市にて
門司区での家族との日々
—北九州市門司区での幼少期について教えてください。
私は福岡県の北九州市門司区で生まれ、6歳までそこで過ごしました。当時の門司区は、雨が降ると床下浸水が頻繁に起こる地域でした。私の父親には兄弟が5人おり、全員が同じ門司区内に住んでいました。お風呂がない時代で、生活環境は今と比べると非常に厳しかったです。
6歳のときに父が新しい家を建てたので、それまでの生活から一転して、新しい家での生活が始まりました。当時のことは今でも鮮明に覚えており、新しい家での生活は、とても嬉しく、また新鮮でした。
—小学生時代の思い出についてお聞かせください。
小学校1年生のころ、父が肝硬変になり、九州大学病院で入退院を繰り返していました。当時、住んでいた門司と福岡市は気軽に行ける距離ではありませんでした。それでも入院中に何度かお見舞いに行けましたが、帰りの星空が見える車窓は、やはり寂しかったことを記憶しています。
当時、父親は門司区の工場で会社員として働いていました。大きな工場だったので施設内には書道教室もあり、私も通っていました。また、活発に遊びを楽しんでおり、特に公園で草野球をするのが好きでした。草野球を通じて友達ともたくさん遊びましたね。
近くにはサッポロビールの工場もあり、そこで木箱をもらってきて、お風呂の薪にしていたのを覚えています。
福岡に引っ越して
—小学校5年生のとき、福岡に引っ越されたとお聞きしました。
はい、母親の姉妹(実家は山口県でした)が福岡市で文具店を営んでおり、人手が足りなくなったため、5年生の夏休みに転居しました。新天地での生活に抵抗はなく、野球やソフトボールが盛んな地域だったので、それを通じて新しい友達と仲良くなっていきました。
母親には3姉妹がいて、いとこたちもとても小さかったので、兄弟のように世話をしていました。
—福岡での生活で特に印象に残っていることはありますか?
6年生のときには、よくアイススケート場に行っていました。新しい経験でとても楽しかったです。
—中学受験についてもお話しいただけますか?
福岡教育大学附属中学校を受験しました。1次試験の筆記試験には合格しましたが、残念ながら2次試験のくじ引きで落選し、福岡市立の中学へ進むことになりました。
音楽に癒やされた日々
—中学時代についてお聞かせください。
中学時代、スポーツはあまり長続きしませんでした。卓球部には1ヶ月ほど、バレー部には3日だけ所属しましたが、すぐにやめてしまいました。それ以来、運動部に入ることは諦めました。
その頃は、友人が新聞配達をしていたので、お小遣い目当てで私も始めました。中学3年生になるまでの1年間続けましたね。
—音楽に興味があったとお聞きしました。
はい、フォークギターを買って弾いていましたが、手の指を骨折してしまい、弦を抑えることができなくなったので演奏することができなくなりました。その後はテープを買って音楽を聴くようになりました。海外の曲や岩崎宏美の曲が特に好きでした。
—中学3年生のときにショッキングな出来事があったそうですね。
はい、浅間山荘事件が起きたことがとても衝撃的でした。学生運動が盛んな時代でもあり、社会の動きが強く印象に残っています。
一人ひとりのために、医師を志す
—高校時代についてお聞かせください。
高校は、地元の校区内で合格できそうだったので、県立修猷館高校に進学しました。この高校からは、九州大学の医学部に毎年20名(私の学年は17名でした)ほどが合格していました。
—部活動についてはどうでしたか?
野球部に入ろうと思っていましたが、母からは成績が良ければ入部してもいいと言われていました。しかし、最初の試験の成績が悪く、結局入部は断念しました。その代わりに映画研究部に入りました。この部は体育祭に注力しており、その映像作成を行っていました。映画研究部はとても人気がありました。
—医学部を目指すようになったきっかけは何ですか?
高校3年生のときに医学部を受けようと決めました。社会に役立ちたいという思いもありました。当時、食糧問題が話題になっていたので農学部を目指そうとも考えましたが、研究が政策に反映されるだけでは魅力を感じませんでした。そのため、政策に携わるために法学部も考えましたが、自分には向いていないと感じました。不特定多数の人のために働くよりも、一人ひとりのために働く方が自分に合っていると考え、医者を目指すことにしました。
—進学先は九州大学を選ばれたのですね。
はい、母子家庭であったため、経済的な理由から国立大学の九州大学しか選択肢がありませんでした。結果的に一浪して九州大学医学部に合格しました。
—2回目は「生い立ち、そして医師を目指したきっかけ(中編)」になります。
【関連情報】